ヌーベルまんが、という言葉をご存知だろうか。
映画史に少しでも触れたことのある方は、ヌーベルバーグという単語を連想されたかもしれない。実はこの言葉、「新しい波」ならぬ「新しいまんが」という意味で使われている様子なのである。
大きな声では言えないが、なんとも安易なネーミング。
しかしその解りやすさ故に、好奇心をくすぐられてしまったのは僕だけだろうか。
今回取り上げる『まり子パラード』という作品は、どうやらヌーベルまんがの筆頭に挙げられているらしいのだ。
高浜寛とフレデリック・ボワレの共作『まり子パラード』は、前者が描く江ノ島を舞台としたフランス人(男)と日本人(女)の儚い恋物語が軸となって、そこに後者の耽美的な絵やコラムが挿入される、文学で云うところのいわゆるメタ・フィクションの体裁を採っている。
現代文学で使われる構成を用い、物語をコラージュで作り上げる様式は、確かに映画における
「ヌーベルバーグ」と共通するかもしれない。
作品については、高浜が繰り広げる叙情豊かな物語に好感が持てる。しかし、ボワレのいかがわしさは
圧倒的である。僕が言うところの彼のいかがわしさとは、こんな感じだ。
旅館の窓辺で語り合う二人の物語を唐突に中断し、「どうせボカシを入れるのなら、有効利用として企業広告に
使ってしまえ」と、本編とは何の脈絡もない映倫批判を展開したかと思えば、長時間の正座で鬱血した
女性の足から、日本人の礼儀作法の美しさを夢想する。これぐらいならまだしも、半裸で和室に横たわる
女性の周囲を鯉が泳ぎ、能面をかぶった女たちが、血を流し髪振り乱すカットまで登場する。
なんじゃこりゃ?
これじゃまるで、ハリウッド映画にでてくる出鱈目な日本じゃないか。
最初はそんな苦々しさを覚えるかもしれない。しかし読み進めるうちに、ある憶測が浮かび上がってくるのである。
ボワレは、半端なく日本の女に取り憑かれているんじゃなかろうか。本能的、性的にではなく、もっとも抽象的な
部分において。
俯瞰の構図で淡々とおこなわれる性交の描写からして尋常ではない。
そこにはセックスへの憧憬など微塵も存在しない。あるのは、剥き出しの肉体が交合する瞬間である。
二つの存在を隔てているのは肌の色のみで、想像力を働かせる余地はほとんど無いに等しい。
ファインダー越しに突きつけられるのは、西洋的な豊満さとかけ離れたアジアの肉体であり、何もかもを委ねた
女の裸体と房事に火照った微笑である。
下世話な好奇心に訴える手法はいくらでもあっただろう。しかしあえてボワレはそうしない。
そうしないが故に、よりいかがわしさが際立つのだ。なんともパラドキシカルである。
世界は確実に狭くなっているとはいえ、日常生活において自分が日本人であることを意識する機会はあまりない。
特に国内に留まっている限り。ところがボワレの絵と向き合う時、少なくとも私は、自分が外界に晒され、翻弄されている錯覚に捕らわれる。そして鈍い焦燥を覚えるのだ。これはつまりボワレの探究心
(好意をもった相手をもっとよく知りたい、といった好奇心をもっと強烈にしたような感情に等しい)に、
作品を通じて晒されることへの苦痛なのではないか、と僕は考える。
簡単にいえば自意識を刺激されるわけである。
フランス出身日本在住である彼の絵に、いかがわしさとともに何か訴える力を与えている大きな要因は、そこにあるのではないか。自意識を揺さぶられることに、つい惹かれてしまう僕(もしかして病気?)にとってこの作品は、とても面白かったのである。
皆さんはどう読まれるのだろうか?
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